研究概要 |
本研究では、最終年度にあたる今年度、佐藤嘉三郎家文書・原(圭子)家文書・馬場家文書などの資料調査、整理、分析を通じて以下のような新たな知見を獲得した。 1,上塩尻村内宗門帳上の人口は、天明3年(1783年)の788人から幕末期まで年毎に上下変動しながら40名程度の増加を見たに過ぎない。しかし宗門帳家の「家」数は同期間に倍増している。この増加は、19世紀前半に多くみられ、直接親族家族の家計的自立は示さないにしても、一定数の有力農民家族の「分家」数の増加を反映しており、背景に蚕種生産・蚕種取引活動による彼らの家産蓄積があった。 2,蚕種取引は、有力養蚕農民を中心とする同族的本家分家集団が基礎単位となる場合が多いが、文化・文政期以降、蚕種販売市場(種場)毎に商人仲間(連)を形成するようになり、全体として神明講という議定を持つ蚕種商人仲間によって統括されていた。 3,蚕種市場が大きく変わり始める天保年間、上塩尻村は周辺の諏訪部村・秋和村・生塚村・下塩尻村から蚕種を仕入れ、かつ最大の蚕種生産、蚕種販売を行う村として中心的な位置を占めていたことが判明した。 4,幕末期に生じた村方騒動の背景には、蚕種取引を通じて家産を拡大した農民達が村政上の発言権を有するようになるなど、村内組織の構造変化による村内秩序の変化があった。 5,以上の分析から、上塩尻村内部の村落組織が、18世紀後半から19世紀にかけて大きく変化し、農業・養蚕業を軸とした同族的な結合から、蚕種の生産と取引を軸とした市場経済的なものへと変質してきたことが明らかになった。 本年は、以上のような分析をなしつつ、経過報告的に、市場史研究会、日本村落研究学会、そして日英比較史セミナー(英国ローハンプトン・カリッジ)、日タイ・セミナー(タイ国チュラロンコン大学)で上記内容に関わる研究報告を行った。本研究では本格的に取り組むことが出来なかった蚕種市場の取引構造や市場構造の実証的解明も、今後本研究の延長上に進めていく予定である。
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