神仏分離政策の事例として出雲大社(島根県簸川郡大社町)の慶長14年(1609)と寛文7年(1667)の造営をとりあげた。前者は神仏習合期、後者は神仏分離期であり、両者を比較し、神仏分離の社会的背景を明らかにした。 1. 慶長度造営の社殿(1)中世末にすでに導入されていた輪蔵・三重塔・大日堂・鐘楼などの仏教建築をそのまま残存させた。(2)本殿は、古式の大社本殿に見られない構造形式をもち、かなり強い装飾性と仏教建築の影響が認められる。 2. 寛文度造営の社殿(1)寛文度造営は本願(戦国期以降造営事業を主導した僧侶)・国造家・松江藩の協力態勢のもとにスタートし、最初期には神仏分離の意図はなかった。(2)幕府の作成した寛文度幕府案は仏教建築の影響を色濃くうけたものであり、神仏分離の意図はうかがえない。(3)造営計画に神仏分離が盛り込まれるのは、寛文2年の本願追放以降であり、計画の変更は大社と松江藩の造営担当者を中心にすすめられた。(5)本殿は直線材を多用し簡素単純な構成にまとめられ、神仏分離と復古という意図がこめられていた。 3. 神仏分離の背景(1)国造家を代表とする神官層と本願(戦国期以降造営事業を主導した僧侶)の対立は、はじめ潜在化していたが、所領をめぐる経済的な問題と、造営における主導権をめぐって顕在化した。(2)造替における神仏分離実施には、幕府の許可と松江藩の強力な後押しが必要であり、松江藩主松平直政は藩儒に黒沢弘忠を登用して、廃仏・神儒一致を推進した。(3)神仏分離の構想のもとで、復古も唱えられたが、完璧を期すようなものではなく、寛文度本殿は仏教色の強い慶長度本殿の形式を踏襲するなど便宜的なものであった。
|