本研究は、武家の階層性と屋敷地分布の関係を中心に、江戸の都市構造を明らかにすることを目的とする。さらに、絵画史料をもとに、武家地の都市景観を視覚的に明らかにする。江戸は、武家地・町人地・寺社地が封建的身分秩序に則って配置された、計画的都市である。しかし、その内部構造を詳細に検討すると、制度的矛盾が土地の権利や利用形態にまで及んでたことが明らかになる。江戸初期には、武家が百姓地を買得するという形で、武家地の拡大がすすむ。いっぽう、中期以降には、下級武家地が実質的に売買され、町人地化する傾向がみられる、つまり、土地の所有形態に関する限り、封建的身分秩序は早くから崩壊をはじめた。 今年度には、まず江戸時代初期の大名屋敷に関する新たな屏風絵『江戸山王祭礼図屏風』の発見があった。山車が江戸城内に入る天下祭りの様相が描かれている。当時(明暦大火以前)、永田町にあった山王社の祭礼行列が、城内吹上の紀州播邸の前を通り、町人地へと抜ける様相が示されている。紀州播邸が主要殿舎まで詳細に描かれるのに対して、水戸播邸は門のみ、尾張播邸に至っては簡略に場所の表示がされているだけであるから、注文主は紀州播であろう。紀州播邸では、御成門・表門をはじめ、殿舎の破風などにも彫刻や金の錺金物がみられる。江戸初期の武家屋敷の様相を記録した『向念覚書』の記述ともよく一致する。 また、関連史料として、福島県三春町の『三春城起こし絵図』の発見があった。同絵図は、石垣や練塀が模型のように立ち上がる特異な表現が成されている。本丸殿舎は、御広間・御座間・台所からなり、周囲に1間間隔で柱が立つなど、古い形式を示している。播主が床を背にすると、正面に庭が見える点も古式である。 以上、今年度は新出史料の発見において大きな成果が得られた。
|