本研究は、江戸の武家地の形成過程とその都市景観を明らかにすることを目的とする。江戸は、武家地・町人地・寺社地が封建的身分秩序に則って配置された計画的都市である。しかし、その内部構造を検討すると、制度的矛盾が土地の権利や利用形態にまで及んでいることが明らかになる。また、江戸図屏風などの絵画史料は「発注者の希望」や「時代の意志」を内包し、封建的身分秩序が図像化されたものである。具体的な成果は、以下の通りである。 1.江戸城を中心に、後ろに御三家を控えさせ、前に譜代の有力大名、脇に外様大名を配する。歴博本『江戸図屏風』の構図は、徳川が理想とする強固な軍営の図像化であり、朝鮮出兵の軍営を描いた『肥前名護屋城図屏風』と類似する。 2.歴博本に描かれた旗本屋敷は、船奉行向井将監上屋敷と米津田盛下屋敷の2邸にすぎない。いっぽう、歴博本の描写範囲内において『慶長江戸絵図』で25邸、『武州豊島郡江戸庄図』で31邸の旗本屋敷が確認できる。華やかな大名屋敷を「ハレ」とすれば、日常性「ケ」に属する旗本屋敷は、描写対照として評価されなかった。 3.江戸初期には、武家が百姓地を買得し、武家地の拡大がすすむ。いっぽう、17世紀末には、下級武家地が売買され、町人地化する傾向がみられる。町奉行所の与力同心が住む八丁堀組屋敷でも、18世紀初めに、同心屋敷に限って町名が付けられ、沽券地化する。つまり、土地の所有形態に関する限り、封建的身分秩序は早くから崩壊をはじめた。 4.新出の『江戸天下祭図屏風』に描かれた紀州藩邸(江戸城内吹上)は、明暦大火(1657年)直前の平面図ともよく一致し、当時の建物の使用や彫刻の画題まで詳細に知ることができる。しかし屏風の制作年代は18世紀まで降る。 5.『向念覚書』の記載と『江戸天下祭図屏風』の描写がよく一致することから、時代が下がっても、寛永期の大名屋敷を正確に描きうる情報を、大棟梁家など特殊な集団は保持していたと考えられる。
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