平成9年度に引き続いて、明治期に様式(style)の概念の移入とその確立に努力した伊東忠太の様式概念の理解と消化の過程を中心に研究を行った。1907年に英国で発表され日本でもいち早く紹介された「世界様式」説についても研究を進めた。当時、西欧でも日本あるいは他の後進国でも、それぞれにナショナリズムの高まりとともに、新たな国民様式創立の願望が強まっていた。そんな中、世界のすべての物事が共通化するとして、建築の「世界様式」説が唱えられた。それはそれなりに新しい認識と息吹を示すものであったが、やはり依然としてその根底には19世紀的な建築様式観が流れていた。当時、建築は世界的に材料を、伝統的な石・レンガあるいは木材から近代工業材である鉄・コンクリート・ガラスへと大きく転換させていた。この材料の転換とともに、建築の様式も大きく変革するという認識が世界に広く見られた。日本でも、この材料の転換を図りつつ新しい日本独自の国民様式の創立が目指されたが、その根底にある様式観はやはり歴史主義的あるいは折衷主義的なそれであった。伊東忠太の唱えた「進化主義」はまさしくそれを代表するものであった。しかしやがて、伊東自身も含めて、大正期になると世界的な趨勢のもとで、様式概念そのものが希薄化して近代主義的な傾向を増していく。明治期、西欧の様式概念を重大に受け止めて、それを熱心に移入していく過程には、国の事情の違いもあって、西欧のものからのずれやいいとこ取りあるいは誤解も介在することになる。しかしまたそれ故に、異文化の受容過程に広く見られるように、折衷的ないしは新たなものが生まれて行くという現象も見せるのである。
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