主に二つの側面から研究を行った。一つはStyle概念の移入のキーパーソンとみなされる伊東忠太を通じてその摂取の過程を見る研究であり、他の一つは明治末に当時の最先端の建築思潮として英国から採り入れられた「世界様式」説に注目する研究である。研究結果を箇条書きにすると次のようである。 1) 伊東は西欧のStyleを建築にとって重要な概念と見て、明治25年の卒業論文『建築哲学』で「建築派流(Style)論」を展開した。2) 伊東はさらに明治41年末に「建築進化論」を発表し、そこでは建築の様式はそれぞれの地域(国)と時代に特有なもので、我国では古来の木造建築の伝統をもとにその材料を変えて我国特有の建築様式を創立すべしと唱えた。3) 明治43年には「我邦将来の建築様式を如何にすべきや」の討論会が開かれた。この頃になると既に、スタイルが持っていたかつての重々しい意味合いは薄れ始めていた。それには、西欧でのアール・ヌーヴォーやセッションの台頭や近代運動の中での様式概念の希薄化が関係していた。4) 明治期、西欧の基盤的なものと潮流的なものを同時に混在的に受容していた。1907年に英国の雑誌上で発表された「世界様式」説を即座に同年に翻訳紹介したことなどは、最新の思想を採り入れようとする態度の現れである。日欧ともに1910年代には、自国様式樹立の願望がある中で、一方では世界共通様式も唱えられ、また様式の概念そのものも希薄化の方向にむかっていた。5) 当初Styleの概念は建築にとって非常に重要なものとして日本に採り入れられた。日本にも古来、〇〇様や〇〇造などの概念があったが、それらとの結び付きはあまり顧みられることがなかった。そこには西欧の新しい思想に順応しようという態度が見られた。その他、西欧の様式概念の都合のいいところだけを採り入れる、言わばご都合主義や断章主義とでも呼べそうな移入の態度も見られた。
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