本研究は北部九州における炭鉱関連施設の建築的価値を明確にし、それらが近代化に果たした役割を明らかにすることを目的とする。対象としたのは炭鉱主の住宅・職員社宅・倶楽部・事務所であり、また、資料で把握しうる建物を含めて考察を行った。研究成果の概要は以下の通りである。 炭鉱主の住宅に見られる幅広く分散した建物の配置は、明治20年頃の旧蔵内邸では見られず、明治40年代の旧伊藤邸と麻生本家では採用されている。しかし、接客空間と居住空間の機能の未分化が存在する。それが、大正4年の旧貝島嘉蔵邸と翌5年の旧貝島六太郎邸では、玄関の左右で機能の明快な区分が行われ、重層的な接客空間構成を示すようになり、貝島六太郎邸が炭鉱主の住宅の完成した平面構成であると指摘し得る。 貝島嘉蔵・健次家の別邸(奈多・地行・平和・友泉亭)、豊国炭礦事務所・忠隈炭坑事務所、三井山野鉱業所倶楽部等の図面や麻生家の工事日誌、等の資料は、現存する建物に匹敵する情報量を含んでいる。例えば、麻生本家では工事日誌から、大正9年〜13年に大規模な改造があり、明治43年建設当初の状況が現状とは大いに相違することが明らかとなった。また、貝島家では本邸の別邸に対する優位を把握することが可能である。 三池炭鉱の「職員社宅間取圖沿革」や職員社宅の台帳等の資料は、職員社宅を近代住宅史の流れの中に位置付ける上で貴重であり、中廊下の採用・居室の南面化等、中流住宅の変化と類似した変化を読み取ることができる。 炭鉱は地域での最重要な産業であり、それにより地方の近世的な農・魚村が近代の町へと発展した。従って、炭鉱関連施設が保有する高水準で近代的な技術・意匠・設備、近代的な要素からの影響により地域の近代化が進んでいったと考えられる。
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