本研究の狙いは、農村における難民問題に着目する観点から戦後の東西ドイツ農村と農業問題のあり様を比較史的に分析することにある。本年は既存文献の収集と検討を主に行い、当初予定していた現地での一次の収集を行うことはできなかった。東西ドイツにおける先行研究を検討していく中で新たに獲得されてきた視点は以下の通りである。 東独部における難民としてあった人々の第一のグループは土地改革の結果としての新農民である。彼らは新農民中のおよそ半数を占める。従来「土着の新農民」と「難民の新農民」は一括して議論されてきたが、彼らは経営的にも社会的にも明らかに異なるカテゴリーとして議論されねばならない。土地改革後に経営困難により強く直面するのは明らかに「難民の新農民」であった。 東独部の農村難民たちのもう一つのあり方が、農村の季節労働者としてのあり方である。その数は「難民の新農民」の約1.5倍(1946年)にも上るにもかかわらず、従来の研究では彼らの実態はほとんど明らかにされこなかった。彼らの存在は、土地改革とは別の意味での農村の新たな「他所者」労働者問題として難民問題があったことを示すとともに、同時に1950年代の集団化運動を彼らの観点から見直す必要のあることを意味しよう。確かに第一に、初期集団化は「新農民」の経営困難→経営放棄の増大に対する対応策として出発したが、第二にそれは「難民の季節労働者」の社会的統合政策としての意味合いを帯びていたのである。1953年の6月蜂起以後のLPG組合員の社会的構成における「旧農業労働者」の増大がそれを雄弁に物語る。彼らには「協同組合農民」という形での「社会的同化」の道が用意されたのではないか。 西独部については、農村部の難民問題は、土地改革プログラムを政治議論の俎上に載せたが実現しなかったこと、ヴェストファーレン農村を対象とする個別分析によれば、職業構成、政治構造、および社会的結合をみても、戦後はむしろワイマ-ル期の名望家層のヘゲモニ-の復権がみられ、難民に対しては排他的であったこと、わずかに、戦後の女性の過剰を背景に、土着下層民と難民との間での婚姻が一定数見られるにすぎなかったことを指摘しておく。
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