本研究は、戦間期において徳島県の農産物が、阪神市場で繰り広げた産地間競争を分析し、徳島県農会が農産物販売斡旋事業を展開するなかで、どのような「戦略」をもって「市場対応」を行ったのか。その過程で、いかに農民が組織され、いかなる変容が農村社会にもたらされたのか、ということを解明することを目的としている。 本年度は、昨年度に引き続き、農会の農産物販売斡旋事業に関する文献や新聞資料等を、徳島県立図書館、協同組合図書資料センター(東京都町田市)、国立国会図書館などで調査・収集した。 これまでに収集した資(史)料の分析から、以下のようなことが明らかになった。まず、1920年代の都市化や経済構造の変化を背景に、徳島県農会が他府県農会と同様に、積極的な農産物販売斡旋事業を展開し、徳島県は地理的有利性もあり、阪神市場に対する重要な農産物供給基地としての地位を獲得した。しかし、県農会の指導を受けて出荷組合が組織された地域は、那賀・板野両郡に集中しており、こうした地域的偏在の要因としては、両郡はともに商業的農業が発展し、多くの商品作物を有したこと。また、事業が活発な出荷組合の場合、明治期から共同出荷事業が試みられ、それを推進した地域的なリーダーの存在が果たした役割が大きかったことが分かった。さらに注目すべきは、とくに那賀郡において、大正末期から小作争議が高揚し、農会が協調組合の設立を推進したが、そのことが出荷組合設立の促進作用にもなっていたと考えられることである。そうした意味で、農会の農産物販売斡旋事業という経済的活動を展開・促進させた要因のひとつとして、地域的な争議状況の存在を無視できないと思われる。そこで、両者の関係を含めて、来年度は、戦間期の農会活動の全体像を解明していきたいと考えている。
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