明治期旧大名では最大の大土地所有者であった阿部家の昭和戦後期に至るまでの土地所有と大規模貸地経営及び中心部の小規模土地経営の変遷について追跡した結果、以下の点が明らかとなった。 (1)阿部家では、大規模な貸地貸家経営を行った自らの中屋敷跡本郷区西片町とその周辺の土地のほかに、市内でも中心部に位置する本郷区本郷3丁目、神田区今川小路、同表猿楽町、芝区琴平町、同田町2丁目、京橋区南紺屋町の6ヵ所の土地を所有し、西片町の事務所を拠点として土地経営を行っていた。西片町に対して、他の6ヵ所の地代収入はこれに匹敵するものであり、土地家屋の売却等の動きも活発であった。(2)大正期から昭和戦前期にかけて、本郷西片町では旧来通り、他の神田区、芝区、京橋区の土地は震災復興区画整理地区に含まれ、土地の形状等の大きな変化をみるものの、従来通りの貸地経営が行われる。これらの土地は華族世襲財産ともなっており、阿部家にとっては家格を維持するための重要な資産であった。しかし、地代家賃統制令の施行以降、地代収入は漸減していった。(3)戦後、財産税支払いのために全貸地の約50%が借地人に売却される。売却の際、土地は貸地の実態に沿って分筆され、評定単価の1.5倍前後の単価で借地人に売られた。西片町の自邸敷地を除き、売却処分できずに残った土地が大蔵省に物納される。財産税納税額のうち宅地による物納額は、全体の40.7%であった。(4)本郷区西片町の貸地貸家経営では、借地人の居住を促す様々な方策がみられ、地代等も昭和初期までは相場よりかなり低く抑えられ、恩恵的な土地経営の姿勢がみられた。一方、中心部に所有する他の土地では、不在借地人が多く、むしろ資産的活用に主眼が置かれ、その収益が、阿部家全体の土地経営に一定の役割を果たしていたことがうかがえる。
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