研究概要 |
明治期に大名屋敷跡地に形成された住宅地一本郷西片町における居住者の生活像及び地域社会像、屋敷地の変化について、以下の分析を行った。 西片町の地域社会像については、昭和27年以来毎月発行されている町会誌「西片たより」より、明治期から戦前までの地域生活に関わる話題について整理した。その結果、・阿部家では昭和初期まで毎年正月と天長節には旧藩士の人々を招き、阿部邸の蕉雨館や役宅のある外庭で園遊会を催していた、・一方住民間の交流は薄く隣組活動も熱心ではなかった、・自動車の出入りは、森川町か西片町の交番に許可を得なければ通ることができなかった、・借地人はたき火が禁止され、家屋間の間隔があり電話や消火器を設置した家が多かったことから、東京市内で火災保険料が最も低かった 等の様相が明らかとなった。土地所有の変遷については、法務局文京出張所所蔵の昭和初期から昭和40年頃まで記載された土地台帳等により追跡した。その結果、・昭和5年時点では西片町のほとんどすべての土地は阿部家の所有で50筆(平均1,878m^2)に分かれていた、・昭和23年には財産税支払いのため貸地の約1/2が物納されその後大蔵省により借地人へ払い下げられた、・昭和40年時点には西片町の土地は675筆(平均181m^2)にまで細分化されたこと等が判明した。また、阿部邸及び屋敷地の変遷を土地の変化とヒアリング調査によりたどると、・阿部家本邸は明治24年築の和館から昭和4年新築された洋館に移るが、その際玄関・大広間を蕉雨館とし、応接間と土蔵を白山神社に移築した、・昭和25年には阿部家洋館は西武鉄道(国土計画)に買収され「グリーンホテル」として利用された、・昭和30年洋館を含む土地約3,000坪が宅地分譲され、阿部家の雲の研究室が西側に移築されて住居となった。今後は、さらに阿部家の邸宅及び屋敷地の変遷を中心として、その生活・土地経営をみていくことが近代史上貴重であると確認された。
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