本研究の研究成果としては、まず第1に、富士川の下流平野の洪水災害およびその特徴を、詳しい災害史を編みそれを分析することによって明らかにしたことである。ここでの洪水・氾濫は、延宝2(1647)年と安政元(1854)年という2つの鍵となる年を境に、その発生場所および流路が大きく変わったこと、このうち前者は、左岸にある巨大な「雁堤」が古郡孫太夫重高の父子3代によって築かれた年であり、後者は「安政東海地震」の発生した年であったことを明らかにした。最初の鍵に当たる年は、人間の側が当時における最高の技術をもって、巨大な「雁堤」を築き、左岸平野への洪水を防ぐことに成功した年であったし、もう1つの鍵となった年は、「安政東海地震」という自然のもつ巨大エネルギーが、右岸側を相対的に隆起させることによって、ふたたび自然が人間による征服を拒んだという年でもあった。その第2は、この富士川に大井川・天竜川も含め、それぞれの洪水災害史の分析から、「東海型河川」全体の洪水災害の特徴を明らかにしたことである。その際には、本研究で調査した日本各地の河川、とりわけ「東海型河川」との類似性・異質性が強いと予想された黒部川・常願寺川などの北陸の河川や、古くからの砂鉄採取によって著しく人工河川化された山陰の斐伊川、瀬戸内の太田川などの河川、との比較考察を行ったが、こういった比較は、本研究にあってはきわめて有効であったと判断されえた。その第3は、住民の側での対応について考察したことである。洪水防禦対策としての各種の堤防や、個々の屋敷での「舟型(三角)屋敷」や屋敷林、また水難守護神としての「諏訪神社」・「大井神社」や「屋敷神」の勧請の問題など、いずれについてもそれらの分布と洪水との関係からの分析を試みた。以上の成果をまとめたのが裏の2つの論文・論考であり、いずれも投稿済み・印刷中である。
|