人生における様々な苦難に対していかに対応するかという課題は、諸宗教が担ってきた大きな課題のひとつであった。宗教は一方では苦難からの救済のヴィジョンとその方途を示し、他方ではその世界観に適合的な形で苦難を意味づけてきた。その際、"倫理的善を為せば幸福に報いられる"という応報のシェ-マを多くの宗教は提唱した。ところが、その場合に応報が一貫しない、つまり善行が幸福につながらないという矛盾がたちあらわれ、この問題への対応を迫られることになる。マックス・ウェーバーが「神義論(Theodizee)」と呼んだ事態である。 この対応の仕方を日本の諸宗教思想の中に探索してみると次のような考え方が見出されてくる。現世での不幸を前世での悪行の帰結と見る仏教の輪廻転生説。善に幸を報いる善神のほかに善人に禍を与える悪神(禍津日神)も存在していると説く本居宣長の神道。善人が禍を受けるのは神にきたえられためされているのであって死後の世界では必ず幸福に報いられると説く平田篤胤の神道。不合理であろうと天命に甘んじ、道徳的に生きていること自体が幸福なのであると説く儒教の立場。善と幸との対応については以上のような考え方を見出すことができる。 苦難の意味づけとしてはそのほかの考え方もある。たとえば、「たたり」という考え方。これはウェーバー流に言えば「脱呪術化(Entzauberung)」せざる状態ということになろう。また、或る個人の不幸をその当人が帰属する集団(一族など)内の別人の悪行に帰責する考え方も平家物語などに見出されるが、これは個々人が対等・独立であるというキリスト教的前提とは全く違う前提のもとでの発想といえる。
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