身の概念を明らかにするために、朱子学関係の江戸時代の著作を当たったが無駄であった。からだの名称や、からだの具体的な動かし方に関する記述はほとんどないのである。それよりもむしろ、現在に残るいくつかの身体表現を参考にした方が適当であった。つまり、「おななが痛い」とか「腰が入っていない」などの日常的な言葉の中で、「おなか」や「腰」が何を意味しているのかを検討するのである。これらの語は、生理学用語と比較すると非常に曖昧である。すなわち、どこからどこまでが「おなか」なのかはっきりしておらず、足をしっかり踏ん張っていない「からだ全体」の様子を「腰が入っていない」と表現するからである。これによると、おなかや腰は、単にからだの部分の名称ではなく、ある精神的、心理的状態までをひろく含でいる。 身体概念に対する批判的著作を整理した。市川浩や湯浅泰雄の場合の身体概念は、特に心身二元論を前提、強調しており、この身体概念を人間に当てはめて理解する際に見られる、現象学的、心理学的、あるいは論理的な不整合を問題としている。野口三千三は、身体概念が実際の身体を過小評価しており、身体にはもっと神懸かり的な潜在能力があるのでこれを無駄にするべきではないという。これらに共通するのは、医学的技術で明らかにされた身体の自然科学的、あるいは物質的な構造の持つリアリティーについては批判の余地なく受け入れている点である。つまり、湯浅は、この物質的な身体の生理的な作用のうちに精神的な働きも含まれるので、精神と身体の間に両者を分かつ線を引いてはならないのであり、野口は、目に見える作用だけではなく目に見えない作用を見落としてはならないというのであって、両者とも医学的に表現される身体自体は認めているのであり、この概念をより現実的なものへと拡大するよう論じているのである。以上のような先行研究の整理を行った。
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