昨年度に引き続き、死者の亡霊が僧の夢の中に現れるという、世阿弥の夢幻能に関する検討をおこなった。 討ち死にした武将の霊を主人公とする能(いわゆる修羅能、世阿弥自身の分類では「軍体」の能)については、昨年度国際シンポジウムで、夢幻能の舞台である僧の夢が今日「夢」という言葉で理解されているものとは異なり、瞑想体験と共通するものとして捉えられていること、その夢の中で武将が妄執を語ることは、敗者と勝者、死者と生者に隔てられた二元論的なあり方からの脱却を意図するものであることを指摘し、今年度はその内容をシンポジウムの論集ZEAMI AND THE NO THATRE IN THE WORLDにThe Function of Dreams No playsとして発表した他、内容を増補して論文「能における夢の機能」として発表した。 また、恋の妄執にとらわれた女性の霊を主人公とする能(世阿弥の分類では「女体」の能)について検討し、女人救済という、今日では仏教の女性差別的な要素として議論されもする構造が、同じ人間としての男女の優劣ではなく、能においては異性=異類としてとらえられていることを指摘し、恋はその絶対的な隔たりを乗り越えようとする意志であり、それゆえ女性の霊の恋の妄執は、二元論的なあり方の脱却を意図するものとして、すでに検討した「軍体」の能の、討ち死にした武将の霊の訴えと等質なものであることを確認した。 その上で、民俗芸能や、日本では神仏分離の際に大打撃を受けた仏教儀礼と芸能の接点となるものを今なお残すチベット仏教、脳死問題や臨死体験への関心など、今まさに社会問題となっている今日の日本人の死生観など、様々な観点から比較検討することで、夢幻能の死生観を総合的にとらえることを試みた。
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