秦嶺山脈の西端に位置する麦積山は、五胡十六国時代より禅の修行場として有名であった。しかし現存する最古の石窟である第74及び78号窟の造営年代は、大きく分けて、その当時のものであるとするのと、北魏時代に入ってからのものとする二つの意見があり、未だに結論がでていない。そこで本年度は、壁画に描かれた文様や塑像、そして窟形式などを分析することで、この問題についての考察をおこなった。 まず壁画の文様として摩尼宝珠文様及び荷葉文様を例に取り分析を行った結果、それらが北魏時代前期(460年代後半〜480年代初め)に描かれたものであるという結論が得られた。一方塑像の分析からは、これら二窟の工人たちが塑像を造るにあたり、北魏が国力をかけて造営した雲岡石窟ではなく、460年代後半から480年代初めに開かれた河西石窟群第二期諸窟を通して新しい情報を得ていたことが知られた。しかし彼ら自身も五胡十六国時代以来の伝統を持っていたので、それを基盤として情報を取捨選択していたと考えられる。では雲岡石窟とはほとんど影響関係が見られなかったかといえばそうではない。窟形式に注目すると第74及び78号両窟は、規模だけでなく細部にわたって形式が類似していることが知られる。それゆえこれら二窟は、470年初等から造営が開始された雲岡石窟の第二期諸窟のように「双窟」として造営されたとも考えられる。しかしそれらは、北魏皇帝である孝文帝とその祖母文明太后のために造営されたわけではないし、横に並んで開かれているわけでもないなど、雲岡石窟第二期諸窟との間にも違いが認められる。それゆえ麦積山第74及び78号窟は、雲岡石窟第二期諸窟からの影響を受けていたが、それを完全に模倣するのではなく、独自の窟形式を造り出していたことが理解される。
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