今年度は、室町初期を対象に朝幕関係の基調を明らかにすることを目標とした。従来、当該テーマは、訴訟制度や伝奏などの公武の意思伝達機構の解明という方向で研究が進められてきた。しかし、本研究では室町幕府が鎌倉幕府の倒壊から南北朝内乱を経て成立したことを重視し、内乱の進行のなかで朝幕関係の基調、とりわけ天皇との関係がどうつくられていったのかを考察した。 具体的には、官軍の可視的表象である錦旗を利用のされ方に注目し、以下のような見通しを得た。(1)鎌倉幕府滅亡時の内乱において、錦旗は必ずしも天皇が味方に与えるだけでなく、諸勢力が自ら官軍を称して掲げる場合があった。当該期の錦旗の形態が多様であるのも、このことによると考えられる。つまり、多様な官軍のあり方が、多様な錦旗を生み出したのである。(2)かかる錦旗の使われ方に対し、建武3年の入京後の足利氏の錦旗利用を検討すると、(a)追討院宣などとともに、治天の君にその授与を求めた、(b)錦旗を掲げるのは足利氏と執事高氏に限られ、一門、外様は錦旗を掲げることはできなかった、(c)足利直冬の初陣、義詮の将軍就任初度の出陣など足利氏にとってモニュメンタルな合戦に院宣や錦旗がつかわれたこと、が明らかになった。つまり、足利氏は内乱期の錦旗のあり方を整理し、唯一正統な錦旗を創出し、その独占をはかったのである。 この結果をより一般化すれば、足利氏の朝廷・天皇に対する態度は、それらを一方的に抑圧するのではなく、その権威を再興し、再興した権威を独占することを基調としていたといえよう。通説が足利氏が天皇・朝廷を抑圧したとするのは、二つの局面のうち、独占だけに注目した結果と考えられる。 次年度は、かかる足利氏の対天皇・朝廷政策が、以後の朝幕関係をどのように規定したのか考察することにしたい。
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