今年度は、清代ハルハ・セツェン=ハン部中末旗関係史料から、乾隆4(1739)年から同治10(1873)年に到る期間の同旗兵丁登録簿である比丁冊33件の分析を行った。同旗の比丁冊は33件中29年分が無印の草稿本であり、清書本を作成する過程で行われた訂正・塗抹・書き込みが豊富に見られる。比丁冊本文及び書き込み・訂正部分の詳細な分析の結果、以下の事実が判明した。第一に、旗及び旗行政組織の下部単位である佐領組織の編成原理に、時期によって一定の変遷が存在し、これが必ずしも清朝中央の法制史料に現れる制度と一致しないこと。第二に、旗の貴族身分であるタイジ層及びこれに分与された属民である随丁の数量的変化の実態が明らかになったこと。特にタイジ人口の増加に伴って必然的に増加するはずの随丁人口に大きな変動がみられず、法定の分与随丁数を満たさないタイジの増加が見られること。第三に、比丁冊中の書き込みから、清朝によって編成された3佐領(後に2佐領半に減少)組織とは別個に、オトクないしバグと呼ばれる旗民社会組織が存在したこと。第四に、比丁冊同旗タイジ系図の分析から、オトク・バク組織がタイジの近縁者による血縁集団によって区分されていること。従って、近縁のタイジを頂点に、佐領成員・随丁、そしてラマをも含む別の社会集団が機能していたこと等が明らかになった。これにより、清朝の佐領組織が社会組織としてはたぶんに名目的なもので、オトク・バクというよりモンゴル伝統の社会組織によって旗民生活が律せられていたのではないかとの見通しが可能となった。
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