今年度は主に、張作霖政権成立の背景について研究した。具体的には、該政権の人脈、組織、理念、政策に関わる問題-治安維持と財政-についてである。既発表の論文では、清末から辛亥革命への奉天省での治安維持の在り方から、該政権の性格を照射した。現在は、同時期の財政問題についての論文を投稿準備中である。二篇は相互に関連しているので、以下に内容を要約する。まず清末に、ロシア・日本両国の侵略の危険が東北地方に迫り、従来の清朝の東北地方行財政システム(満州族統治を念頭においた将軍制と、北京の朝廷を真似た盛京五部制、皇室財産管理と定住漢族からの税徴収管理の分割などにより、権限を集中させない)では、緊急事態に対処できないことが露呈したため、盛京(奉天)将軍(1907年に各省の将軍を廃止。東三省総督と各省巡撫という、一般的制度へ移行)への軍事・財政権集中という改革が始まった。その過程で、張作霖ら「馬賊」は当局側の新たな軍事力に加えられる機会を得たし、民間自衛集団「郷団」の指導者・袁金鎧と、その人脈に連なる王永江らは、近代警察の創設に関わった。後者は地方当局の徴税活動にも動員され、末端の行財政を担った。一方、「馬賊」から軍隊に編入された張作霖らには安定した軍事費の支給はなく、駐屯地での一部強制的な金銭徴収や、統領の個人資産からの支出で賄うという、「馬賊」的特徴が残った。しかし清朝が創設した近代軍(新軍)の東北駐屯軍は、辛亥革命において革命派に合流する恐れがあったため、旧式の軍隊として傍流扱いされてきた張作霖らが、総督の掌握する中心的軍事力となり、袁金鎧らと協力して東北の共和政府成立を阻止した。結局は清朝が崩壊し、民国北京政府が奉天都督(1914年から将軍)を派遣するが、民国の政治的動揺のため強権を行使することはできず、張作霖が16年にこれを追放して、袁金鎧・王永江らと共に自らの政権を発足させるのである。
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