ドイツ史上最初の大衆文化とよばれるワイマ-ル文化の性格を再検討している。ワイマ-ル時代は、教育・文化史の観点からみるならば、周期的に訪れる学生過剰に教育機会の拡大が追いうちをかけ、ドイツ史上空前の就職難の時代であった。伝統的な教養理念は大きな危機にさらされ、それをささえる制度的な基盤も激しく揺いだ。大卒者や博士号取得者が肩書きにみあった職につけるチャンスは可能なかぎり減少した。かれらは、同時代の史料のなかで、しばしば「大卒プロレタリアート」とよばれている。「大卒プロレタリアート」のもたらす社会不安は、議会においても重大な危機と受けとめられていた。この時代に発展した文化産業に人的資源を提供したのは、これら「大卒プロレタリアート」とよばれる人たちであった。つまり、ワイマ-ル文化の仕掛け人は大衆とよばれる人たちではなかったのである。この点をげんざい筆者は伝記的な研究からあきらかにしつつある。また、伝記的な研究は、この文化の仕掛け人たちの屈折した心情をも浮きぼりにする。かれらは教養市民層にたいして激しい敵意を燃やしながらも、強烈なエリート意識から大衆に接近することはできないし、またその意志もない。結果的に、この文化は受容者の側からみても大衆文化とはよびがたいのである。ワイマ-ル文化は、国際的な名声を博したにもかかわらず、国内においては共和国同様だれひとり愛するもののない文化であった。今後はワイマ-ル文化をさらに多角的に検討するために、伝統的なエリートのこの文化にたいする態度、また大衆の態度に考察の範囲をひろげてゆきたい。
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