相馬藩には、南北標葉郷と、中村城下近郊の2つの窯業生産地があった。北標葉郷では17世紀末に大堀相馬焼の生産が開始され、18世紀代には小丸・大堀・井手の3ヶ村で、瀬戸・美濃産の陶器を模倣した碗を主体とする生産が行われた。これらの碗は、安価な飯碗として急速に東北地方の広い範囲に普及した。中村城下近郊では、18世紀前葉には、東海系の瓦とともに小野相馬焼が生産された。18世紀代の小野相馬焼の主体は、皿・大鉢・片口鉢・香炉等の灰釉製品と、鉄釉を用いた擂鉢・灯明皿であり、前者は、東北地方の広い範囲に流通していた。 製作工程や窯の構造、窯詰技法を検討した結果、大堀相馬焼の技術系譜は、外見上製品に認められる類似性とは別に、直接、瀬戸・美濃地方に求めることはできないことが判った。 天明の飢饉以降、18世紀末から19世紀初頭にかけて、南北標葉郷では窯の増加と拡散が認められる。新規の陶業従事者の急増を受け、相馬藩は、陶器の生産と販売に関わる税制の改革とともに生産者の保護管理体制を強化し、在郷給人層を中心とする旧来の生産者は「瀬戸系譜」に示される由緒・筋目を楯に、新規参入者の排除と職能上の特権の維持を図ろうとした。19世紀初頭には、南北標葉郷で50基以上の窯が同時に稼働していたと考えられる。瀬戸・美濃地方と比較して、相馬の陶器生産は、窯業が多い一方で、窯1基はあたりの生産規模が小さく、生産効率が低い特徴がある。19世紀代には、大堀相馬焼が藩の保護・管理のもと、煎茶器や酒器を中心に江戸市場への参入を果たしたのに対して、中村城下近郊の窯は、各地に成立した小規模窯のまえに流通圏を縮小し、館ノ下焼と呼ばれる甕・鉢主体の地域密着型の窪業に生産方針を転換する。両者の違いは、「器種の多様化」と「産地の地方化」という19世紀代の焼物に共通する全国的な消費動向に対しての適応方法の違いといえる。
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