前年度に明らかにした狭義の葺石、貼石、石垣といった数種の古墳の外表施設について、それぞれの系統関係やその変化の背景、また積石塚などとの相関関係を明らかにした。本研究者が調査を実施した岐阜県西寺山古墳をはじめ、初期の定式化した葺石は大きな基底石を据えた後に石による裏込めを厚く設けながら大き目の石で外表を完成させるというもので、この大和で完成した葺石が強いインパクトで伝わっていった。このような出現期にすでに完成されていた葺石は従来から言われてきているような中国地方の弥生時代墳丘墓に見られた貼石や列石に直接起源するものではなく、むしろ外表の仕上げ方などの点から四国の積石塚との関係が強いと判断される。そして畿内の中でも河内の古墳が強い類似を見せている。こうして定式化した葺石は中期に向けて裏込めを薄くしていき、外表の石との区別もなくなっていく。そうして一重に葺く一般的な葺石となるが、この変化に応じて区画列石が目立って見えるようになる。それが、6世紀になると畿内では急速に葺石は廃れていく。これは、横穴式石室と版築技術などの新しい技術が入ってきたことによる変化と考えられるが、関東などでは6世紀後半まで従来の葺石を踏襲し続ける。畿内を含め6世紀後平になって新たに普及した外表施設は盛土と一体となって構築される石垣であり、従来、外護列石と呼んでいたものがこれに含まれる。これらは一重のものから墳丘内部に何重にもめぐらすものまであるが、墳丘の外表に露出しない例も多く、土留めが本来的な機能と考えられる。この新しい石積みは、おそらく朝鮮半島の墳墓構築方法の影響を学んだ結果で、ほぼ同じ時期から見られるようになる表面仕上げの意味が強い貼石も、朝鮮半島にすでに5世紀から存在するものである。しかし、一方で、この貼石は、飛鳥水落遺跡の貼石遺構などとの影響関係が考慮されるべきであろう。
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