我が国の刑事事実認定論が、戦後、誤判(事実問題)を争う弁護活動及びそれを支持する国民的運動、即ち当事者主義的・民主主義的実践と、如何なる葛藤・連帯を経験しながら展開されてきたかとの視角で、その史的考察を行った。誤判の防止・救済を目標とする理論の発展は最近めざましいものがあるが、しかし逆に一九五〇・六〇年代にみられた憲法論からの取組は希薄となりつつあるのではないか、との評価に基づき、「公正な裁判を受ける権利」の一要素としての「公正な事実認定」、そしてこれを実現させる枠組としての「事実認定の当事者主義的構成」を、試論的なコンセプトとして考えてみた。 現在の我が国の刑事手続における事実認定の実際につき見識を深めるため、事実問題が争点となった裁判の問題点につき、弁護士の方のご意見を伺う機会を得た。有罪立証を支えるとされた証拠の証明力が薄弱なものであることが明らかとなっても、その証明力をほぼ完全に否定しきれるほどの説明ができなければ、いわゆる可能性論に基づいて、依然有力な証拠とされる現実というものを痛感させられた。「疑わしきは被告人の利益に」原則を実質化させるための、権理論ないし制度的枠組の必要性を改めて認識した。 イギリス・アメリカの答弁不要の申し立て(無罪判決の申立・無罪の指示評決の申立)、拳証責任、及び上訴制度の相関関係を調査した。「公正な事実認定」、「当事者主義的構成」に如何なる示唆を与えるものかは、検討中である。
|