「野党・反対党・抵抗」の中で「小国ルクセンブルクの反ナチ抵抗(Opposition against Hitler)」についてまとめた。第一に、第二次世界大戦中、ルクセンブルクに残留した国会議員は、ドイツの意をくんで働くことを拒否した後で、自由な政治活動を禁止された。少なからぬ政治家達が逮捕され、他の政治家は疎開先から帰って来なかった。若干名の政治家は強制的に移住させられた。第二に、抵抗運動は、ルクセンブルク国民の中に醸し出された反ドイツ・反ナチ感情を利用した。こうした反ナチ感情を表す言葉として、「ドイツ人売国奴」という占領軍と占領軍協力者に対する蔑称がある。第三に、一九四一年以来、一部はカナダのモントリオールに、他の一部はロンドンに所在していた、ルクセンブルク亡命政権が抵抗運動に参与した。ルクセンブルク語で発信される英国放送協会のラジオ放送が、祖国に繰り返し伝播された。こうして、大女公シャルロッテとルクセンブルク国民の親密な結びつきが、BBCラジオ放送によって確立された。大女公シャルロッテは、自身の非常な危険の中で密かに聴き継がれた、極めて注目されたルクセンブルク語による演説を媒介として、議論の余地なく一国の女性領主として成熟していった。その結果、ルクセンブルク国民は勝利の中で、大女公(=君主)を迎え入れたのである。第四に、一九四四年九月十〇日にアメリカ軍部隊はルクセンブルクを解放した。だが、現実には当時なお、約二万人のルクセンブルク国民が、未だに帰国していなかった。多くの国民がドイツの監獄、強制収容所、強制移住先にいるか、ドイツ国防軍に所属していた。本国解放後も、数百名が、生きて再び故郷の地に帰還できなかった。第五に、永世中立国ルクセンブルクは、二回の大戦で祖国を蹂躙された後で、戦後、NATOの原加盟国となったのである。
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