分子スケールでの非平衡熱力学を確立するために、微視的な記述であるハミルトン力学にもとづいて熱力学的考察をすすめた。カオス力学系では、軌道不安定に付随して定義される単位時間あたりの平均情報損失率が正の値をとる。つまり、初期に指定された情報は一定の割合で失われていく。一方、熱力学エントロピーは、外部からの操作に伴う不可逆性の指標なので、情報損失と関係することが期待される。両者の関係は、研究目的に掲げた揺らぎと応答の関係を議論する際には、もっとも基礎的なものになりうるし、情報論的側面との関係も直接的である。そこで、カオス力学系としての情報損失率と熱力学系としての熱力学エントロピーの関係を見い出すことに焦点をあてた。 ハミルトン力学系におけるエントロピーの値をボルツマン公式によって求めた。ただし、一般に位相体積の計算は困難なので、断熱定理を使って計算可能な系まで準静的変形したのちに位相体積を計算する。扱ったモデルでは、外部操作に伴うエントロピー変化は常に正の値をとった。 情報損失率はきまった力学系に対して定義される量なので、そのままでは熱力学エントロピー変化と対応しない。そこで、情報損失に関係した、外部の操作に伴う変化量である「過剰情報損失量」を新たに導入した。この量は、局所不安定多様体の向きを指定する基底が外部の操作に対して変化をする間に余分に損失する情報量として定義される。この時、過剰情報損失量の不可逆部分が熱力学エントロピーの変化分の半分である、という美しい公式の予想を数値実験の結果として提案した。この公式のさらなる正当化、数学的証明、および、現象理解への適用などを来年度からの課題として引き継ぐことになった。
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