沖縄県の農村部における「南入-列型」宅地割が、沖縄型の風水によるものであることは、多くの研究者によって明らかにされているが、都市部における「南入-列型」の研究は皆無であった。 しかし、本年度の調査の結果、糸満市や名護市、石垣市などの市街地においては、すでに200年前頃から「南入-列型」の宅地割が存在していたことが、ほぼ確定的であると思われる。とくに糸満市においては、その後の市街地の拡大部分でも「南入-列型」の宅地割が、終戦直後から日本復帰頃まで実施されてきたことが明らかになった。 さらに、読谷村の楚辺地区では、終戦直後の米軍による土地接収により、近辺の土地に新に「南入-列型」宅地割による集落移転が行なわれ、現在でも十分に機能しており、沖縄市の泡瀬地区においては、日本復帰直後に「南入-列型」と「ヤマト型」(いわゆる背割型のもので小路のあいだに二列の宅地が入る)の混合型の大規模な宅地造成が行なわれたことが明らかになった。そして近年では、ほとんどの宅地造成は、「ヤマト型」のものに変化した。 今年度は、沖縄県の都市部における概要が把握されたが、他の都市部の事例やその計画の根拠となる思想・理念はまだ解明されていないため、来年度の課題としたい。 また本土の事例について、国土地理院や大学図書館において資料収集を行なったが類似事例は見当らなかった。ただし、瀬戸内海の離島や尾道市において、「南入一列型」に近い事例が観察されているので、本土の事例調査も来年度の課題としたい。
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