本年度は、「宋西北辺境軍政文書」109件の分類・整理作業を行った。特に、その際に指標の一つとした文書書式に関しては、大きく状式・牒式・箚付の3つに分類されることが確認された。また、これらの書式の機能および文書の授受関係の分析により、「〓延路第七将」と周辺の諸機関との関係を検討し、当時の西北辺地域の統治体制が「州-県」という民政系統と「将-堡寨」という軍事系統がパラレルに並ぶ構造であり、その双方を経略安撫使が管轄するものであったことを見出した。 さらに、1126年に北宋の首都・開封が金軍により陥落した後に、その救援のために西北辺地域で編制された「御前会合軍馬入援所」に関連する文書を分析した。この作業により、西北辺地域が北宋滅亡および南宋成立の後にも軍事力を保ち続けており、華北を占拠した金軍に対して徹底抗戦の意思を持っていたことが明らかとなった。両宋交代・宋金交代期における重要な事実である。 2010年2月19日~3月1日にかけて、ロシア・サンクトペテルブルクのロシア科学アカデミー東方文献研究所において、「宋西北辺境軍政文書」の実見調査を行うことができた。この調査により、従来は判読されていなかった印文の判読や、知られていなかった裏面の押印の確認などの成果をあげることができた。さらに現在は実見調査に基づき、孫継民『俄蔵黒水城所出《宋西北辺境軍政文書》整理与研究』(中華書局、2009年3月)で公開された全文書の録文の修正作業に取り組んでいる。
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