研究概要 |
本年度は前年度の成果を承け、「宋西北辺境軍政文書」(以下、「文書」)中の「御前会合軍馬入援所」(以下、「入援所」)関連文書の分析を行った。この「入援所」関連文書には赦書の内容が一部引用されているものがあり、その内容は『三朝北盟会編』所載の建炎元年(1127年)五月一日に降された赦書すなわち高宗即位時の赦書と一致する。また、文書に引用されているのは金軍により潰滅・離散した兵士たちを招集して軍容を建て直すための処置に関することである。そしてこの文書は「建炎元年五月」の日付を持つ別の文書と繋がる可能性が高いことも判明した。 以上から窺えるのは、金軍による靖康の変・北宋滅亡の後、陜西地域はなし崩し的に金(あるいは金軍に呼応した西夏)の支配下に入ったのではなく軍事体制を建て直して「抵抗」を試みたこと、南宋政府成立の情報が迅速に陜西地域に伝えられ、密に連絡をとりつつ金軍に対処しようとしていたことなどである。 従来、北宋滅亡から南宋成立とその後の宋金関係については、金軍の経略過程、南宋政権内部の権力闘争や岳飛などいわゆる「四大武将」の活躍、宋金和議交渉などに焦点があり、華北については金軍の侵攻にどのように対処し,情勢がどのように推移したのかなどについてはほとんど考えられてこなかった。 しかし、北宋期以来、陜西地域が最大の軍事力を有していたことや、金の勃興以後ユーラシア東部地域に新たに形成された金・南宋・西夏の鼎立状況の中で陜西地域をめぐる角逐があったことなどに鑑みれば、当該時期の陜西地域の情勢を明らかにし,それがどのような意義を持つのか検討する必要がある。「文書」中の「入援所」関連文書やそこに見える赦書の分析をより深めることで,それらが可能となるのである。 なお、2011年2月13日~2月20日に,サンクトペテルブルク・ロシア科学アカデミー東方文献研究所にて「文書」の実見調査を行った。
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