我々は技術を価値中立的なものとして考える傾向にある。現代の科学技術をみてみれば、それらが純粋な手段の追求であり、それをどのように使用するかという目的の側面はまた別の問題である、という考え方がごく自然なものとして定着していることがわかる。けれども、プラトンは真の技術にそのような価値中立的なあり方を認めず、必ず「対象の善を目指す」ということを要求している。このプラトンの技術概念は、現在の高度に発展した科学技術社会の中で生じている様々な弊害の原因をその根本から考察する上で、とりわけ注目に値するものと言ってよい。しかしながら、彼の述べる「対象」と「善」がそれぞれどのような事柄を指示しているのか、という点に関して現在までに研究者の意見が分かれ、時には全く正反対とも思われるほど多くの解釈が提出されてきた。このような状況の中で、私はまずプラトンの「対象」が属性から区別された実体のような外延的なものではないことに注意し、技術の働きと密接に結びついた内包的なものであることを示した。さらに、技術の目指すべき「善」の意味については、倫理性を技術の内在的な原理として読み込む解釈に対して、プラトンによってそれぞれの技術に負荷された価値とは、あくまでそれらの働きに応じた技術的な善であることを示した。その上で、個別的な技術の範囲を超えて諸技術の階層関係までを考慮する段階ではじめて、そのような倫理性がそれぞれの技術に外在的な原理として組み込まれる可能性があることを明確に論じた。今年度に得られたこの研究の成果は、プラトンの『国家』中心巻で語られる<善>のイデアとの連絡が大いに予想され、広い視野からプラトンの認識論を捉え直す可能性をもっていると考えられる。引き続きこの研究が進展し完成するならば、プラトン哲学だけでなく現代の技術観、そして認識論一般に対しても一石を投じる機縁となるだろう。
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