20世紀の文学において、自由直接話法や自由間接話法と呼ばれる技法は修辞的に重要な役割を担ったほか、ジュネットをはじめとする物語論などでも視点や語る声の問題のなかで活発な議論を呼んだ。しかしこれらの話法の理論は基本的に、英語やフランス語、ドイツ語などを元に考え出されたものであり、日本語や中国語といった言語形式の異なるテクストでそのまま通用するとは限らない。その形式としては従来、人称と時制が話法判断の主な指標とされているが、時制が表示されず、主語を省略できる中国語などではそもそも分析困難である。とはいえ間接度の調整までがないわけではないはずである。そこで今まで行われてきた話法の定義の問題を振り返り、その上で本稿では新たに「物語世界を外から客体化するか否か」という観点をから、今まで分析が困難だった日本語や中国語の分析について考えた。また、従来はあまり区別して論じられていなかった自由間接話法内の間接度について考え、その言語間の対応について考えた。 この点からみると、日本語における語りのひとつの特徴は、内的焦点化にともなって物語状況の人物の位置に移動しやすいということである。また、形式的に表示される要素が少ない中国語は、日本語型になる場合と英語型になる場合があるが、いずれにしてもこの観点で分析が可能になることを見た。 このほか、「意識の流れ」の日本語訳、および中国語訳に関する考察も行った。
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