城下町・会津若松と郡山について、計二点のことを明らかにした。 (1)会津若松の塗り物商人のあり方と、19世紀以降江戸での塗り物の販売拠点となった会津藩産物会所の特異性を明らかにした。 まず前者について。若松の塗り物商人は市場ごとに塗店(城下)、大坂出し、江戸出し、田舎出し(地方)の四つの仲間に分かれていた。しかし、彼らは重複して所属したり、仲間を渡り歩くなど流動的であった。ただ人数は、江戸出し、田舎出しが圧倒的に多く、これらの地域が主たる出荷先であると考えられる。以上のような具体相が、今回の研究で明らかになった。 次に後者について。産物会所といえば、藩あるいは御用商人が領内の産物を一手に買い上げ売り捌く、というイメージで捉えるのが一般的である。しかし、会津藩の場合、塗り物商人の江戸での販売方式(対面販売)に規定され、上述のような産物会所の機能は果たされず、あくまでも商人の宿として存立し続けた。こうしたあり方は従来の産物会所のイメージに再考を促すものである。 (2)郡山藩在方の酒造業の展開について明らかにした。同藩在方では元禄期から洒造株が藩によって公認されていた。株数自体は増えないものの、天明期までには株高を上回る酒造を行うようになっていた。ここに在方酒造の成長が窺える。 また、この時期には交通の要所に位置する村に酒の「中次渡世」と呼ばれる者が発生した。彼らの手によって在方の酒は大都市消費圏へと出荷された。その流れの中で、本来は城下で造った酒以外を売ってはならないはずの郡山城下へ、これらの酒が流入した。 文化期には在方での株数が大幅に増えた。特に、郡山城下の酒造株が在方の者に取得されていく、という点が興味深い。こうして、卒業論文で明らかにした城下酒造の衰退は、在方酒造の成長と表裏一体で進行することが明らかとなった。また、在方酒造の展開過程の事例検討を積み上げることにも貢献した。
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