2009年5月のカンファレンスにおいて、モンゴルが版図をユーラシア規模で拡大していく過程で、いかなる「時」を受容し運用していったのかについて述べた。かなり初期の段階で中国暦を受容し、それを北中国の統治原理に組み込んでいったモンゴルであったが、イスラム教が浸透し、まったく異なる「時」が使用されていたイラン・中央アジアでは、自らの「時」を強いることはせず、むしろその土地固有の「時」に自らの「時」を合わせていった。6月にサマルカンドで行なわれたカンファレンスでは、13世紀イランにおいて記された『イル・ハン天文表』に見える「中国暦」についての考察を発表した。元来この暦は「中国・ウイグル暦」と呼ばれ、モンゴル帝国初期に政治・文化の両面において大きな役割を果たしたウイグルの暦を反映しているとされてきた。しかし、天文表の記述やこの暦法を天文表の著者トゥースィーに教えたとされるファオ・ムン・ジなる人物の来歴に注視した結果、この暦が唐代以降に中国で用いられてきた民暦に似た特徴を持ち、ウイグルの媒介を経ず、中国から直接移入されていたものであることが明らかになった。君主の命でもって「帝王の暦」として記されたこの暦が、実は官暦を簡略化した民暦の類であったことは、帝国における統一暦導入の不可能性を示す。10月から12月の間にテヘランで行なった調査によって資料を収集し、その成果の一部を2010年1月シンガポールでのワークショップにおいて発表した。そこではイスラム教の浸透以前からイラン・中央アジアで用いられ続けてきた農事暦の年始ノウルーズについての発表を行なった。モンゴルもイラン侵入以後ノウルーズを祝い、徴税の基準とするようになる。もとよりイスラム教に由来するものではなかったノウルーズであるが、イスラム教を標榜する為政者によって祝われるようになるなかで、法学者もそれを正当化していく。その正当化の実態について報告した。
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