日本に広く分布する黒土(クロボク土)中には必ず炭の粉が含まれていて、これは縄文人が「野焼き・山焼き」を行った結果であると考えた(山野井、1996)。縄文人は狩猟・採取が生業とされているが、こうした「野焼き・山焼き」は原始的な農耕である「焼畑農業」のために違いない。本研究はこうした作業仮説に立ち、初期の焼畑農業の実体を「炭の粉」と「花粉」を主な手段として、それがいつ生まれ、どう伝搬したかを明らかにすることである。 九州ではクロボク土の形成が早いという記録が多いので、まずはその実体調査のため、専門家の協力を得て、熊本県阿蘇地域、宮崎県霧島地域、鹿児島県大隅地域の陸成層の層序の観察と試料の採取を行った。黒色の強いクロボク土は、いずれの地域もアカホヤ火山灰層より上位であるが、黒褐色のクロボク土は3地域とも1万数千年前の層準から出現している。現在室内で腐植の含有率と微粒炭の堆積密度を分析しているが、すでに霧島地域の結果では腐植の含有率と微粒炭の堆積密度が急激に増える層準を見出すことができた。それはテフラの「霧島小林」と「アカホヤ」の間である。その層準の年代については現在、放射性炭素で測定中であるが、東北地方における同様の色調のクロボク土の出現層準は約1万年前である(山野井、1996)ことから、これよりも九州の方が古くなる可能性が強い。今、陸成層中の炭の粉の消長と花粉・胞子組成などの関係から、初期段階の焼畑農業の実体とその伝搬について明かしつつある。
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