本年度の研究は総括年度としてまとめを行った。以下はその要約。 阪神淡路大震災の思想的インパクトとそこから生成されたテーマ ; 95年1月の「阪神淡路大震災」は人々の実存の限界をいやというほど知らされた。そしてこのことは、人間存在が、受苦的な存在として世界を受けとめているというテーマを、あらためて認識せざるをえなかった。限界状況limits-situationsのただ中での希望である。ここでの限界状況下における<希望>とは、ひとびとにとってその存在が、現時空間から将来の時空間に対し、あらゆる可能性がそこからはじめるところの現実的境界」として了解された、そしてそれを支援したボランティアの存在は、日本社会の有り様をめぐる基本的な思想的インパクトを現した。それは同時に市民社会や地域社会の在り方をめぐる新たな方法的視点構築を不可欠としている。生成されたテーマ-<受動性>から出発する《新しい主体性論の構築》<身体性>という主体 : 被災を被るという事態は、ひとびとの身体性をして、自らが弱く、また苦しみを受ける、という受苦性を認識させた(絶望)。パテーマ(pathos : passion)論からの<主体>像の再検討 : 苦しみを受ける身体性、こうしたテーマが意味するものは、身体的な主体を全面に出しつつ、そこから<主体の転位>が試みるられている必要がある。それは、受動的主体が受動的ではあるが能動的主体へと転生する行為を新たにテーマとする必要がある、という<主体の転位>が問題とされよう。<主体の位相の転位> : 近代的知の主体性が、全体として強さと力の<能動性>の原理から論ぜられきたことに対置して、現代は、痛み・苦痛という人間の弱さ、すなわち<受動性>から出発する《新しい主体性論の構築》こそが緊要である。阪神淡路大震災から今日までの、被災者ボランティアの存在こそは、身体性の受苦、受動、弱さからの<自立>を支援するという、こうした自律的な多くの<出会い-組み合わせ>によって、新たに<弱さの存在論>、<弱さの主体性>がテーマ化されつつある、とうい予感である。<弱さの存在>-<受動的主体>からいかに<受動的能動>へと転生するか、という問題が最も現代性を帯びて提起されてきたといえよう。それは近代知からみれば<主体の位相の転位>である。同時にこうした問題提起は、市民社会の主体像や地域社会の主体像の設定に、大きなインパクトを与える。
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