巨視的に見て、唐宋の間は華中・華南の少数民族の社会が急速に漢化した時期であると考えることができる。福建地域においては、唐初までこの地域に居住する漢人は極めて少数であったが、唐中期以降福建北部の山岳地帯への漢人の入植者は傾向的に著しく増加した。かれらは入植の過程で意識的、無意識的に強化した同族結合と同郷の絆の力によってこの地域を占拠し、さらに唐朝中央の権力あるいは中原の漢人生活圏とのつながりを意識的に強化した。やがて、黄巣の反乱勢力の福建への侵入への対抗を契機として、福建南部の平野部をもその勢力圏に収めた。この過程において一貫して主導権を握ったのが中原の河南、とりわけ光州からの客来者であった。福建地域最初で最後の地域王朝は、この光州からの客来戸を中心として成立した。このような福建地域の自覚的な中央指向をよく表現していたのが、宋王朝の成立とともに推し進められた科挙への福建地域の傾注であった。科挙が華北の、とりわけ河南の勢力を中心に成立した宋王朝の手によって推し進められたと言う経過に対応して、その最初期の合格者は薯しく華北とりわけ河南に集中していたが、次の時期には福建とりわけ建州の合格者が著増した。そしてこのあと、北宋一代を通じて建州はもっとも多数の科挙合格者を出すことになった。建州は武夷山中にあって、交通条件は困難であり耕地に恵まれず相対的に人口が過大であり、富者の層は極めて薄いと言う悪条件のなかで、この偉業を成し遂げたのであり、そこには強烈な中央指向性をもってなされたこの地域の形成と言う歴史的要因が、つよく働いていた。南宋期に入ると福建南部の福州の科挙合格者が激増し、建州に替わって全国の科挙の動向を主導した。これに対して建州は同様に山地地帯から出身した朱子の学問を積極的に受け入れ、朱子学は最初にこの地域に定着したのである。
|