隋唐時代は、儒仏道三教が表面的には対峙排斥の姿勢を維持しつつ、実質的には他者の主張やそれを支える論理に深甚なる関心を払い、自己の理論の整備や論理の精密化を図る不可欠の資糧としていたと認められる。唐初には極めて鮮明な対立的構図が認められるのに対して、唐中期から後期になると、対立排斥よりも、むしろ調和、融合や相互変容の構図が顕在化して来る。儒道両思想における仏教的運命観の受容がそうした傾向を一端を示すであろうし、儒家的倫理観が道仏両思想に受容されるのもその一端であり、また仏教的心性論が儒道に深く影響し、道家的修養論が儒仏両家のそれに与えた作用も小さくないと認められる。唐代後半期はこうした三教調和融合の状況のもと、儒仏道それぞれが各自の主体性を維持し主張すべくその理論的整備を自覚的に推進しようとした時代だと認められる。李皐羽の『復性書』は、仏道両家の心性論とは別の儒家伝統の心性論を主張しようとするものであが、その表面上の主張はともかくとしても、背後でそれを支えるものは道仏両家の心性論であり、撰者未詳の『元気論』は不老不死の神仙を我が身に実現する方法を提示しようとするものであるが、道、仏、儒三家の思想を基盤としたものであり、陸希声の『道徳真経伝』は道家の『老子』を儒家の経伝の思想で解説しようとするものであるが、論の展開に重要な役割を荷う諸概念はおおむね仏教教理学で常用されるものである。以上のように、唐後期の思想界は三教の調和融合の下で三教それぞれが理論化を推進していた。
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