『現観荘厳論』が所依としている『二万五千頌般若経』に、般若波羅蜜の教えを求める常啼菩薩が、三昧の中で仏から法上菩薩を紹介されるというエピソード(これ自体、チベットにおけるグル・ヨーガの源の一つであると思われる)があることを参考にして、『現観荘厳論』において、仏が実体を持たないながらも行者を見守るような存在として扱われている例を解析し、それが論全体でどのような意味を持っているか考察した。 解析は第四章の「加行の功徳」の項目と第八章とを中心に行い、その際に、プトンなどのチベット人の註釈も参照した。とりわけ仏を表す語に単数形と複数形の両方が用いられていることに注目した。その結果、次のような結論に達した。 現観の行者は自分の実践を通じて、その実践に向かわせてくれるあらゆる出来事を仏の働きと感じ、それぞれに仏を感得する。そしてその仏が一つの法身の顕現にすぎないと理解する。『現観荘厳論』に説かれる現観、行者が自ら仏になるまでの全段梯を包摂している。その長い過程において弛むことのないようにするためには、行者は自らの行なっている行為が仏にいたる道であることの確信をたえず必要とするであろう。そのようなとき、仏から見守られているという感覚があれば、その確信が堅固なものとなるであろう。そうであればこそ行者は、仏から見守られているという感覚によって、さらなる加行を進める意欲が湧くのであり、加行を進めた結果、仏から見守られているという感覚がさらに強まることになる。要するに、現観を実践するためには、行者がなんらかのかたちで仏からの働きかけを受けたという感覚を持つ必要がある。しかし仏という実体が存在しないならば、自ら仏を感得する能力がなければ、仏からの働きかけを感じることができないであろう。その意味で現観は、仏を感得する能力を持った者にのみ可能な実践であったと言えよう。
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