本年度は第1章を中心に、『現観荘厳論』が殺生などの「悪」をどのように位置付けているか研究した。 『現観荘厳論』が善と悪の問題に言及するのは、第一章第五項「行の対象」においてである。そこでは善はもちろんのこと、殺生などの悪もまた行の対象とみなしている。ただし、それを「放棄すべきもの」と観察することによってであるが。ところで、第六章「行の目標」に対するハリバドラの註釈には「対象は現在時のものであり、身近にあるものである。目標は将来のものであり、遠方のものである」と説明があり、殺生などの悪は、修行者がいまだ自ら行なう可能性のある行為であると考えられる。『現観荘厳論』本文もハリバドラ註およびチベット人による複註も、それを「放棄すべきもの」とみなす根拠を記してはいないが、おそらく仏教一般の考え方(自分が苦しみに感じることを他者に行ってはならない)が根拠となっていると考えてよかろう。 ところで『現観荘厳論』が描く修行過程では仏を目指す修行者は、自分が直接歩むコースではないものの、声聞と独覚の智慧である一切智性をも学ぶことになっている。いわば自分とは異質の者、しかも自分よりも劣っていると考えられる者の「形相」つまり「ものの見方」を自らも学ぶのである。それは、それぞれの衆生の状況に応じて、適切な説法を施して教導するためである。『菩薩地』や『秘密集会タントラ』などに、慈悲心をともなえば場合によっては殺人を肯定しうる(利他殺人)思想が見られるが、『現観荘厳論』が描く利他の行為は実質的には「教導」のみなので、利他殺人を否定するための理論的根拠となり得よう。
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