研究概要 |
本年度は,カントの超越論的哲学を手がかりにして,道徳的実在論を内的実在論として再構成するところから開始した。だが,カントの超越論的観念論が経験的実在論であるとはいっても,そこから端的に道徳の実在性を価値の経験的認知の方向でもとめることにも, 「理性の事実」を安直に引き合いに出すことにも問題がある。むしろ本研究では,自由であるべく遂行される行為が道徳的事実として捉えられるという側面に注目することにした。むろんいかに自由を志向してなされた行為にも,その隠れた自然的原因を(心理学的に)探ることは可能であろう。その意味で自由の経験的確証は不可能である。本研究で注目したのは,そのような自由ではなく,道徳の根拠という意味での「自由」である。ある価値を選択する根拠が(それが道徳的根拠であれば)究極的には存在しない,という否定的事実を認めることこそ,今日的意味で道徳的視点に立つことであること。しかもそれが単なる決断の問題とは異なることを,定言命法,とりわけその中の「相互性」と「目的自体」の意味を解釈することで明らかにした。 共同体崩壊後の近現代において道徳的実在論をとるということは,古代・中世の共同体の中で培われた倫理的徳目にリアリティを認め,それを単純に復活するということではない。その意味でカントの定言命法こそは,道徳が「何かのためという目的」や「根拠」を持たない自足的な意味の世界の開示であることを,象徴的に語るものである。しかも目的自体の命法は,人間が自らの本質や目的を知らない,その意味でネガティヴに自由なものとして相互に認め合うという意味が込められており,そこに古い徳倫理の実在論とは異なる,特殊近代的な道徳的実在論への手がかりがあると考えた。
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