近代の主観主義の流れのなかで、道徳に限らず実在論を素朴に主張することは難しい。理性の限界や文化の相対性が明らかになり、人間の本質や目的が神の視点ではなく等身大の視点から語られ始めたことが、近代の特質であるとすれば、一般に脱実在論の傾向は、当然の流れとも言えよう。事情は道徳理論の場合でも同じである。「よさ」の追求は個人の自由な選択に委ね、道徳理論の関心は、有限な理性や利己的欲望を前提に、「よさ」を追求する行為を統制する社会規則や富の配分原則(正義の原則)に注がれてきた。 しかしそれらの理論がもたらしたものは、様々な立場の解消不可能な対立と、具体的場面での道徳的認知に対する無力さという問題であった。この問題に答えるために古代中世の共同体と徳の倫理の復活を唱えるものもいたが、現代にそれを単純に復活することは難しい。そこで本研究では、徳倫理の主張を参考にしながらも、近代の状況にそくした新たな実在論の可能性を検討した。価値の多元性を考慮するとき、単純に形而上学的な実在論を復権することは難しい。そこで私は、H・パットナムの内的実在論とその源流に位置するカントの超越論的観念論を、道徳に適用してみることにした。以下、本研究で明らかになったことを箇条書きする。 1.内的実在論をとることで、多様な価値の実在性の場が確保できるが、現代において特に重要なのは、自由という価値にリアリティを与えることである。 2.自由にリアリティを与えるとは、形式的自由や孤立を越えて、互いに他者の自立を可能にする自由を実質的な形で保障することである。 3.実質的自由の保障には、センの潜在能力アプローチの分析が参考になるが、他方で具体的場面で実質的自由の認知力の育成には責任論などの別のアプローチが必要である。 4.「なぜ道徳的であるべきか」という問題を検討する上で、内的実在論は有効に機能する可能性がある。
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