昨年度にひきつづき、ハイデガーの真理論との関連において芸術とテクノロジーの問題を研究の中心にすえた。わたしたちは今日、現代の科学技術を通じて、感覚能力や情報処理能力の飛躍的拡大をはじめ、はかりしれない恩恵をこうむっている一方で、存在のもっとも基礎的なレベルにおいて逆に、ほとんどわたしたちの現実そのものの変様さえひき起こしかねない危機に直面している。ところで現代のテクノロジーにたいしてこのように、肯定的であれ否定的であれ、なんらかの判断をくだす場合、当然ながらその根底には、人間がどこまでも自然を制御することが可能であるとする考え方がある。科学技術の負の側面にしても、人間が自然にたいする制御可能性をいまだ汲みつくしていないという、ただ一点にその根拠が求められることになる。しかし今日わたしたちが科学技術によって直面させられた事態は、はたして人間によるこうした制御可能性によって克服できるような性格のものであろうか。むしろそのような、いっさいを制御可能であると見なす思考そのものが、現在の事態を招いたというべきではないのだろうか。ハイデガーが技術への問いにおいて直面したのは、まさにこのような歴史のダイナミズムであった。ハイデガーは、歴史の無気味な力を見すえつつ、根底的な「転回」の可能性をもふくむラディカルな問いとして技術への問いをたてている。ハイデガーは一貫して存在への問いをみずからの唯一の課題とした思想家であるといえようが、かれにとって技術の問題は、まず「制作」し「つくる」という仕方での物とのかかわり方として問われている。すなわち「つくる」こと、制作には、物とのかかわり一般にとって範例的な意味合いがあるということ、いわばつくられたものを基準にわたしたちは世界を、あるいは世界内部にあるものを、見ているのではないかということが、ハイデガーのなかで『存在と時間』以後次第に自覚されてくるのである。こうした見方は、近現代の技術とは別様の「制作」を本質とする芸術の意味を問うた講演「芸術作品の根源」(1935)においていっそう明確に主題化される。そしてさらに、そのような一連のテーマは、晩年の技術への問いへと集約され、独特な後期ハイデガーの思想が形成されるにいたる。以上、ハイデガーの技術論の検証が本年度の研究の中心をなしていた。
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