本年度は4年間にわたる研究活動の総括として位置づけ、とくにハイデガーによるニーチェ解釈をいま一度検討しなおすことが企てられた。ハイデガーのニーチェ解釈の主眼は、奇異で極端な詩人哲学者の思想を、単にひとりの思想家の考えたこととして解明することではなかった。むしろニーチェという西欧形而上学のいたりついた必然的な運命との格闘こそが本質的なのだった。しかも一九三六年にはじまるハイデガーのニーチェ講義は、美の無関心性や芸術の問題をはじめ、西欧形而上学と、それに属する美学にふくまれる多様な局面を批判的に展望し解釈している。この点でニーチェ講義はハイデガーからながめられたニーチェ像の提示にとどまらず、ニーチェにながれこんだ形而上学のさまざまな思想を、「存在の歴史」の観点から巨視的に考察するという意義をもになっていた。そのため、いわばみずからの道を強引にきりひらくという主導的目的のために、ハイデガーの解釈図式によって捉えそこなった多くの思想的可能性があることを指摘することは容易であろうし、たとえばニーチェの「遊戯性」の概念はその典型的なものと見なすことができる。とはいえ、ニーチェが最終的にたどりついた永遠回帰の思想は、ディオニュソス的な世界遊戯としての存在解釈とともに、近代の主観性の形而上学の徹底した否定ののちに垣間見られた可能性の、ひとつの極限的な形態であり、この意味では、ハイデガーもニーチェも、一見したところ対極的な方向性を示すように見えながら、じっさいにはそれぞれ別の道をたどって、あるひとつの同じ場所にいたりついたといえるのではなかろうか。以上のように、遊戯、存在論的真理、美的無関心、芸術等といったテーマ系に即しつつ、ニーチェから現代思想に及ぶ総括的な解釈がなされた。
|