「生の問題(Lebensproblem)」は、ドイツの古典的社会学においては、近代人の文化生活の「意味」問題として論じられている。 (1) M.ヴエーバーの場合:社会学においては、「生の諸力」 (社会秩序、宗教、倫理、文化)に対する「魂(Seele)」の「態度決定」を媒介にした、生の諸力の「固有法則性」よる生の「規制」「様式化」「形成」が問題となり、生の諸力の自己実現に奉仕すべきものとしての「生」(=「文化的生Kulturleben)の無意味性が指摘されている。 (2) G.ジンメルの場合:社会学においては、「魂の運動」ないしは魂の「相互作用」による「社会化それ自体の形式」が「純粋に形式的かつ中立的な生の諸力」として問題となり、生と生の諸力との相互作用は問題とならない。他方、「魂の運動」の二重性に関連して、「事物の固有法則性」に従って発展する「客観的文化」と「魂の法則性」(個性的運動)の結果としての「主観的文化」の「パラドクス」が哲学的に論じられている。この場合、「生は、より以上の生であり、生より以上のものである」との「生の本質」に由来する、「魂」と「事物」の同一性が問題となる。したがって、ジンメルにおいては、「文化的生」の意味問題はヴェーバーの場合のように「悲劇的」「消極的」に観察されることはなく、むしろ積極的に評価されているように見える。
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