後発資本主義国である日本の「市民社会」形成のあり方を理論的に把握するために、ヴェーバーの市民杜会論およびとグラムシの受動革命論の検討を行った。彼らの理論に共通するのは、先進資本主義国イギリスのアダム・スミスの理論とは異なり、経済的発展それ自体に社会の発展を期待することができず、それが理論の上では功利主義批判として現れていることである。この功利主義を乗り越えるために、両者の社会理論においては、個人の倫理の問題(グラムシの場合には「知的・道徳的秩序の形成」)が中心に据えられることになった。いわば、近代社会を経ることなしに現代社会(=大衆社会)に突入するという事態のなかで、「社会秩序は如何に可能なりや」という問題を功利主義的な視角からではなく、倫理的な視角からする社会統合の問題として捉え返しているといえよう。 日本社会の「成熟にかかわる分析については、1970年代以降、高度消費社会に随伴する大衆社会現象の深まりのなかで、「私」のエゴイズムを前提にして、そこから自己の行動を出発させる個人が形成されてきたことを明らかにした。このエゴイズム主体としての「私」は、今日の社会状況のもとで、様々な社会病理現象を引き起こしている。とはいえ、これまでの「上から」の社会規範に代わる「内から」の社会規範への転換への可能性がそこに秘められている点を見逃してはならないであろう。このような主体による相互行為を通して、お互いの人間関係を律するルールがどのようにして作り出されていくのか、ここに日本社会の「成熟」の如何がかかっている。今後、この観点は、教育問題や社会福祉の領域で、極めて重要になってくると思われる。
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