明治新政府は、明治十四年の政変を契機として近代化の指標としてドイツを選択する。その結果、「ドイツ一辺倒の風潮」がうまれ、「ドイツへの傾斜」がすすむ。政変後のドイツ傾斜の展開をあきらかにするためには、ドイツの学術・文化の受け入れ態勢の整備といった制度や政策の側面だけでなく、知的媒体として移植政策を実際にになった留学生の個別的な実態調査が不可欠である。本研究は、日本人留学生がはじめてドイツ大学に学籍登録した1870(明治3)年夏学期から帝国大学に講座制が導入され、日本人教員が講座を独占したことによって、形式的であるにせよ、アカデミックなレヴエルでの近代的自立が現実する1893(明治26)年までを調査期間とし、かれらが帰国後、「ドイツへの傾斜」の過程において、どのような人的ネット・ワークを形成しながら、どのような役割を演じたかあきらかにすることを課題とする。そのために、平成10年度には、すでに学籍登録者名簿の複写またはマイクロフィッシュを入手し、ピックアップした日本人留学生、延べ1.408名、実数375名の日本人留学生について、海外留学生に関する先行研究、伝記、日記、人名録、官員録・職員録などによって、まず、姓名の照合確定にたずさわり、そのうえで、個々の留学生に関して、出発年月、出身地・生没年、留学前の経歴、留学の動機・目的、派遣、専攻、修学過程、ドイツ滞在中の状況、帰国後の経歴などについても調査をすすめた。同時に、知謀井上毅を中心として、薩長藩閥の独占体制が確立し、プロイセン欽定憲法にならった立憲君主制への移行が決定される明治十四年の政変にいたる政治的な過程をあとづけ、「ドイッへの傾斜」の意味をさぐった。さらに、未着手の大学の学籍登録者名簿、留学生の修学の情況をあきらかにするために必要なドイツ諸大学の講義録、教授スタッフのリストなどの複写またはマイクロフィッシュの発注にむけて準備をはじめた。
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