1. 日清戦争後、韓国、清国への日本人の進出に伴い、日本人学校の設立が進んだ.彼等は「居留民」として条約上一定の特権を持って、事実として相手国の許認可を得ることなく学校を作った.必然的に教員を必要とし、規模が大きくなるに従い有資格教員を日本国内から招恥する必要が生じた. 2. それを、制度.政策課題として彼等が日本政府に要請するようになったのは、19世紀末がら今世紀の初頭であった.1902年(明治35)10月、文部省は田内法規の拡大解釈によって居留地からの小字校教員招聘に対して、「休職」をもって派遣することを認めた.これは極めて重要な新事例であった. 3. また、当初は対象国が韓国に限られていたが、1906年(明治39)にはその制限もなくなった.統治権の及ぶ植民地においては、国内法親との関係では同種の問題は起きようがなかった.外国政府からの招聘官吏の場合は、1900年(明治33)の勅令9号によってその者を「定員外」として外国に派遣することを可能にした. 4. しかし、「休職」は在職年数として算定されない待遇上の不利益があり、それを在外子弟教育を行う日本人学校に限って解消したのが1905年(明治38)の「在外指定字校」制度であった.しかし、これは相手国の教育主権に抵触するおそれがあり、在留する日本人とその学校すべてに適用することはできなかった.人移民国の場合がそれであり、し.たがって「休職」による派遣はその後も意義があったのである. 5. 海外からの要請ではなく、日本政府主導の積極的な教員の海外派遣は、1940年(昭和15)の「大東亜共栄圏構想」による、占領地等への日本語教員の派遣であった.翌々年には文部省に初めて渉外課という専任セクションが設置された.
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