1.教員の海外派遣が政策課題となるのは、明治後期清国政府が日本人教習の招聘を始めてからである。日本政府は1900(明治33)年「外国政府ノ招聘ニ応スル官吏ニ関スル件」(勅令9号)で、その者を「定員外ト為スコトヲ得」とした。この措置は1904(明治37)には「待遇官吏」つまり公立学校教員等にも準用されることにした。 2.しかし、この措置は当該者の退隠料等の待遇を考慮したものではなかった。そこで文部省は1902年(明治35)、韓国居留民からの教員招聘要求に対して、市町村立小学校教員がその招聘応じる場合は、「求職」扱いとする新しい方針を打ち出した。さらに1905年(明治38)には「在外指定学校」教員として招聘に応じた場合は、その退隠料等に於いて不利益にならないような仕組みを作った。 3.こうして、教員の海外派遣の便宜が図られたが、海外からの教員招聘は依然として私的関係に頼らざるを得なかった。海外から教員招聘依頼があった場合広く人材を集めるために、外務省は『官報』に公募広告を載せ(1926)、また1929(昭和4)年には「在外邦人小学校教育功績状規程」(省令8号)を定めて海外教員選奨政策を進めた。 4.その後、1930年代後半以後「満洲国」と大東亜共栄圏への大量の教員派遣期を迎え、1940(昭和15)年には文部省が外地派遣教職員銓衡委員規程(訓令)を定め、翌年4月には銓衡窓口は文部省一本とされた。この期は日本語教育要員の派遣も課題であった。
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