本研究は、新潟県佐渡という地域社会において、戦没者に対する祭祀や供養が、その地域の祖先観にどういう影響を与えたかという点を、フィールドワークに基づいて、明らかにしようというものであり、以下、本研究によって得られた新たな知見を箇条書きする。 (1)佐渡東北部の相川地区は、かつて墳墓に永続的な墓石を建立しない地域であったが、日清日露戦争以来、戦没者の碑(墓碑と顕彰碑の区別は暖昧)を建立することが契機となり、それ以外の家族の墓碑をも併せて、先祖代々之墓として建立するようになっている。これが戦没遺族以外にも先祖代々之墓を波及させた蓋然性が高い。 (2)戦没者の碑は日清・日露の頃までは、集落の共同墓地域内に建立する地域が多かったが、シベリア出兵以降になると、道路脇や寺堂境内など公共の場に建立する傾向に移っていき、それが墓碑的性格から顕彰・戦勝祈願的性格を帯びていく。 (3)各集落では当初は従来の義民に対する供養と同形式で、戦没者を慰霊・鎮魂していたが、(2)とも関連して、行政町村(寺院等での合同慰霊祭)や佐渡全体で祀る形式(護国神社)も現われ、戦没者の慰霊は重層化している。 (4)忠魂碑や戦没者祭祀の施設は、むしろ戦後に建立される方が事例的に多く、特に当地の最終年忌である50回忌に合わせ、神社境内に統合されたりする一方、戦没者碑を破壊し、祖霊一般に融合させようとする遺族もあり、その対応(儀礼的処理)は多様であった。
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