本報告は鳥海山周辺に居住していた修験宗団の内、山形県遊佐町吹浦地区の修験者を鳥海山吹浦修験と規定して、調査・分析した成果である。 鳥海山は古代より噴火を繰り返し、それは大物忌神が神意を表す印であるとして、古代には朝廷から位階・勲等などが贈られてきた。吹浦修験は中世には羽黒山と緩やかな関係を結び、近世には神宮寺を中心に「25坊、3社家、1巫女家」からなる組織が確立し、独自の活動を行っていた。近代以降は神仏分離令を経て、神道となり、今に至っている。 本報告では鳥海山吹浦修験の宗教生活、宗教活動、組織の実態、位階を受けるプロセス、神道との関わり、地域の伝承、地域社会に及ぼした文化的な影響力の解明を目指した。その結果以下のことが見えてきた。(1)吹浦修験は、近世期に神道の色合いを強めた。(2)鳥海山周辺の修験宗団と鳥海山上を巡る領有権争いを繰り返し、そのしこりが今に残っている。(3)明治の神仏分離令以降、早々と神道化し、吹浦口の宮が一手に鳥海山の権益を得た。(4)そのために鳥海山の他の地域との軋轢を生み、訴訟問題を起こし、それが未だに地域間の禍根を残す結果となっている。(5)現在行われている神社の祭札が鳥海山修験の位階を受けるプロセスと密接に結びついている、などである。 本報告では神仏分解令以降の動向を把握できるように、明治27年に書かれた大物忌神社の『社務日誌』の翻刻を全文載せた。また鳥海山吹浦地区及び周辺に残る修験道関連文献目録2075点をデータベースとして掲載した。
|