本研究では、幕末から1940年の紀元二千六百年までの、奈良という地域の変容に迫った。「聖地」大和の形成過程を、歴史的古代と神話的古代の形成という二つの観点から分析した。いわば政治文化として古代復興論である。 神話的古代の復興としては、明治維新における神武創業の理念の浮上、幕末の神武陵の造営、神武天皇をまつる橿原神宮の創建、そして畝傍山の皇室財産化を明らかにした。日清戦争後には、畝傍山山麓が全体として神苑化されてゆき、1940年の紀元二千六百年事業にその聖域化は完成する。この間、記紀神話のフィクションが視覚化されてゆく。 歴史的古代の復興は、1880年代にフェノロサ・岡倉天心が手につけた法隆寺・興福寺などの古社寺の復興、皇室財産としての大和三山や正倉院御物の形成、1889年の帝国奈良博物館の発足、吉野山・奈良公園などの名勝や平城京・古墳といった史蹟の整備・保存などを通じて実現してゆく。そして明治期の文化財の体系的な調査が、制度としての日本美術史成立の基礎作業となり、岡倉天心による日本ではじめての「日本美術史」の叙述の成立につながる。ここでは、ヨーロッパのギリシャの「古典古代」に対置するものとして、奈良の古代美術が位置づく。のちには和辻哲郎『古寺巡礼』などの大正以降の教養主義、そして観光や学校教育を通じて、古代文化をめぐる国民的な「常識」が定置され社会に浸透してゆく。
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